子どもを授からなかった未来を想像する夜に|夫が抱える“お金以外の不安”

妊活をしていると、どうしても「費用」の話題が中心になりがちです。
でも、夜ふと考えてしまうのは、それ以外の不安のこと。
「もし子どもを授からなかったら?」
「妻をひとりにしてしまう未来は?」

お金では解決できない心の揺れに向き合う時間も、妊活の一部だと感じています。

子どもが授からなかった未来を考えてしまう

街で幼い子どもを見かけるたびに

買い物や外出のときに子どもを見かけると、つい視線で追ってしまいます。
まだまだ可能性を信じているから、そのときの気持ちは嫉妬心や哀しみに支配されるほどではないです。
しかし、変に意識してしまいます。

その感情、違和感というか…辛いまでは行っていないんですよね。
私たちふたりは「子どもの手を引く大人に、親になれるのだろうか」という不安。

しかし子どもを見て意識してしまうたびに、ほんの少しだけれど着実にその感情が大きくなっていってるのを感じます。
いずれ、その感情に私自身を支配されてしまうのでしょうか。

自分たちの人生に“もしも”を重ねる

「もしも子どもを授からなかったら」と寝る前に、ふと考えてしまうことがあります。
眠れなくなるほどの不安ではありませんが、心がたしかに苦しくなっています。

どう努力しても乗り越えられない”現実”が、ふたりの人生の延長線上に待っているのだろうか。

その延長線上にたどり着いてしまったとき、妻はどんな顔をするのだろうか。
果たして、私はその妻を支え切れるのだろうか。

こんな”もしも”は考えない方がいいんだろうか。
それとも、頭の片隅で、少しずつ考え始めた方がいいんだろうか。

そんな気持ちが、頭の中をぐるぐると回っています。

それでも「諦め」とはまだ言えない揺れ

生理が来るたびにふたりで落胆はするものの、

「手術明け初めてだしね」とか
「体が整うまでまだ時間が必要なんだね」とか
「薬があってなかっただけで、前の薬に戻したら大丈夫だよ」とか

ふたりの言葉には、必ず前向きな言葉があります。
ふたりの気持ちはまだ諦めてないんです。ただ揺れているだけなんだと感じます。

揺れているだけということに気づいたら、少し安心しました。
まだまだ妻と一緒にふたりで、ゆっくり揺れていきます。

“あのとき、揺れてたね”と、笑い合えるように。

 

妻をひとりにしてしまう不安

年齢差があるからこそのリアルな心配

今はまだお互い若いので、年齢差がそこまで気になりません。
ですが、一般的に男性の方が早く亡くなることや平均寿命が短いことを考えると、妻をかなり長い間ひとりにさせてしまいます。

歳の差がなければ、ひとりでいる期間は数年でしょう。
しかし歳の差があるため、この”ひとりの期間”がかなり長くなります。

そのとき子どもがいなければ、妻は生まれて人生で初めて、身寄りがない”ひとり”になります。
この現実を想像すればするほど、胸が苦しくなります。

親の老後のために子どものことを考えることは良くないのかもしれません。
しかし妻のことを思うと、家族がいた方がいいんじゃないだろうかという本音があります。

「妻はひとりで楽しめない」という思い込みと恐怖

妻と長い付き合いをしてきて、感じていることがあります。

妻は交友関係もさほど広くありませんし、ひとりで趣味に没頭するタイプでもありません。
近くで見てきたので、よく知っています。

旅行に行って別行動になったとき、ホテルで一人で待っているのを見ても、そう感じます。

その妻を老後にひとり残してしまったら、どうなってしまうんだろう。
残りの人生を妻ひとりで楽しんで歩んでいけるのだろうか。

恐怖を感じずにはいられません。

私ですら、ひとりになったことはありません。
私ですらなったことのない状態に、妻だけがなってしまいます。

妻がひとりになってしまう。

子どもを授かることが“安心材料”になっている現実

妻が若いうちから結婚したがっていたこと
結婚してからずっと子どもを欲しがっていたこと

妻は結婚前、いや付き合っていたときからずっと、子どもを授かる人生を逆算して過ごしていたんだと思います。

だから子どもを授かることこそが、妻にとっての人生の安心材料になっているように感じます。
そして妻の安心は、もちろん私の大きな安心にもなります。

子どもができたらまるっと人生安心OK!ではないというのは重々承知の上です。
しかし今の私たちふたりにとってこの安心材料のない人生を想像できないですし、安心材料にしてしまっている現実もまた怖いです。

妊活が“人生設計”に影響する瞬間

夫婦の将来像を立て直す必要性

まだ可能性を信じたいですが、どこかの局面で、”夫婦の将来像”を立て直す必要性が出てくるんでしょうね。

それがいつになるかは分かりません。
しかし現実に目を背けて生きても、現実はいいものにはなりません。
なので、どこかのタイミングで考える必要が出てくるのでしょう。

このブログでいろんなことを書き記して私の考えを深くしていく中で、ゆっくり考えていけたらいいなと思っています。
いつかは向き合わないといけない現実かもしれませんが、幸い”今突き付けられている現実”ではないので。

頭の片隅に置いて、妊活に影響が出ない程度に考えを深めていこうと思います。

不妊治療の延長線と、子どもを諦める選択肢

このまま不妊治療がどうなるか分かりません。
その延長線上に子どもがいたらいいなとは思いますが、いないかもしれません。

そうなったときは、”子どもを諦める選択肢”を取らざるを得ません。

行き当たりばったりでその選択を選んでしまったら、そこから消耗する人生が始まってしまいそうな気がします。
なので今まで通り妊活を続けつつ、そういう未来もありうるということだけ、頭の片隅に置いておこうと思います。

けれどやっぱりまだ、私たちは可能性を信じています。

宙ぶらりんの時間も妊活の一部

感情が揺れるこういった”宙ぶらりんな時間”も、妊活の一部なんでしょうね。

こんなに感情が揺れていますが、稽留流産の手術明けからまだ数度しか妊活をしていませんからね。
逆にいえば数か月しかたっていないのに、こんなにも感情が揺れるんですね。

こんな宙ぶらりんな時間もよかったね、と言える未来を私は見たいです。

お金では測れない不安と、夫婦で向き合う

妊活では「費用」や「治療スケジュール」が話題に上りやすい。
でも、その裏側には「子どもを授からなかったら」という人生レベルの不安が常につきまとう。

妻をひとりにしてしまう未来への恐れや、夫婦ふたりの人生設計の再構築。
それはお金で解決できる問題ではなく、日々の対話と共有の中で少しずつ形を変えていく。

妊活は、赤ちゃんを望む過程であると同時に、夫婦で“未来を考え直す”時間でもあるのだと思う。

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